幾つかご質問をいただいたので、あらためてコンクールにエントリーする事について書きたいと思います。
コンクールを決めたその日から、来る日も来る日も練習しなさいと言わなければならない日々。本人が出たい!と言ったのに、ダラダラした練習態度を見ては悶々とする日々。何より、遊びも我慢させてピアノの前に縛り付けているようで、親として正しいのだろうかと悩む日々。小さなお子さんがコンクールに挑戦される時、サポートなさる親御さんは何かしら心の葛藤を抱えておいでのことと思います。歴史あるクラッシック音楽を紐解くことは勿論簡単ではない、大変ではあるのです。でも、辛いか…と言われれば、それを辛い方辛い方へと持っていくのは、半分は周りの大人達の態度や言葉なのではないでしょうか。
10年ほど前、ある生徒さんがブルグミュラーの”乗馬”を弾いていらっしゃいました。レッスンの中で「もしお馬さんに乗ったら、いったい自分の体はどんな風に動くんだろうねぇ〜」と拍感の練習をしたり、「お馬さんが全力で駆け出したらどんな感じだろうねぇ〜」と16分音符の練習をしていたら、週末お父様がお子さんを競馬場へ連れてってくださって、パドックや馬が走っているところなど一緒に見学してくださったそう。そのご家庭はいつも私のレッスン中のお話しを広げてくださって、実際に出かけたり、調べたり、つくったりしながら、親御さん自身も心から作品に興味を持って取り組んでくださっていました。こうなってくるともうその子にとってピアノを弾く事は楽しい事。このようなサポートは、その時々は勿論、5年後10年後のお子さんの資質そのものになっていくんだなぁ〜と、生徒さんが成長した姿を思うと実感せざるを得ません。
コンクールの目的は、おそらく人によって違うと思います。私自身は、コンクールに挑戦して得られるものは、音楽以外の事でも得られるような”努力”や”継続”などというものだけでなく、更にその一歩先の、尊い作品を深く学ぶことでしか得られない”エネルギー”そのものだと思っています。何百年も前に作られた遺産である作品を(ここから繋がっていくだろう新しい作品達も含め)深くまで掘り下げることで、作品から放たれるエネルギーに心動かされ、その感動がまた次の学びへといざなってくれる…。更には、それをできるだけ正しい形で次の世代へとバトンを繋いでいく…。個人的にはここまでやってこそコンクールの学びだと思っています。こうして文字にしてしまうと何だかとても生真面目に聞こえてしまうかもしれませんが、私自身、娘達がそれぞれコンクールのようなものに挑戦し始めた頃を振り返ってみると、サポート生活はとてつもなく忙しくなりましたが、それでも何かにつけそれに便乗し世界を広げて大袈裟にワクワク楽しんでいた事を思い出します。ラップの芯でティンパニーを叩いたり(実際には座布団)クッキー作り、石ころに落書き、公園でどんぐりケーキを作ったり、遊具でワニごっこ……。芸術に向かっている時間というのは本当は辛い時間などではなく、尊い作品が持つエネルギーの恩恵にあやかることができる”芸術の時間”です。それがそっくりそのまま公園に移動したり、公園のごっこ遊びがピアノにそっくり移動したり…。なにもピアノが上手くなる為だけでなく、実際に生活に彩りを与えてくたり当時の娘たちの世界観を広げてくれる豊かなものでした。
クラッシック音楽とは、何百年もの間、皆の心の拠り所となりながら人の手から手へとバトンが渡され繋がってきました。そして現代の今、正にあなたのお子さんがそのバトンを握っているのです。コンクールなど出なくてもその学びはできますが、コンクールは他の人の意見も知ることができる意見交換の場でもあるのです。平面の楽譜を立体的に再現する悦びを分かち合い、時に皆でお互いの演奏を聴き比べながら学びを深めていくことは、バトンを繋いでいく上でとても貴重な時間だと思います。
音楽には体力も必要ですし、圧倒的なイマジネーションやほんの僅かな心の機微や、様々な内面的感覚が必要ですから、子どもの頃は大空の下でジャングルジムや雲梯や、ごっこ遊びも絵本も落書きも本当に大切だと思います。ただ、現実的にはコンクール時期はどうしたって練習に時間を持っていかれますから、だったらせめておやつの時間を…ご飯の時間を…お風呂の時間を…掃除の時間を…お散歩の時間を、創意工夫溢れる豊かでワクワクするような時間にする事はできないでしょうか。大それたことでなくても、案外日常の中にワクワクの種は転がっているものです。親御さんのユーモアの風呂敷をど〜んと広げていただき、日常生活の中に楽しい創意工夫の時を生み出していただきたいと思います。親子でそのようなワクワクの時間を見つけることが、お子さんが今日も心躍らせ課題に取り組む資質を育んでいくのだと思います。
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