写譜(読むこと・書くこと・弾くこと)


ノートに楽譜を写す作業は、小さなお子さんは音符を読む力に直結しますし、もっとずっと先の将来、初見に強くなるばかりか、楽譜の読み込みに対する意識が格段に上がるのは間違いありません。

まずは丸から  小さな生徒さんに取り組んでいただくのは、まずは丸だけ、とにかく音符の場所がわかればOKとしています。次第に棒がついて、色が塗られて、八分音符にはお屋根がついて、小節線や休符ができて……と、理解度と共にじわじわと写譜のレベルを上げています。それにしても、小さな生徒さんが書く音符はどうしてこんなにも愛らしいのでしょうか。お顔がついたり(^^;おおらかで、大胆無防備だったり……。子供らしい音符に出会う度に、私の心はウキウキわくわくします♫

三声になったらパート譜  ある程度年齢が進み、初めて多声音楽を弾く時は、各声部をパートに分けて書いていただいています。特にバッハのシンフォニアは、本当に脳みその分離が難しいですよね。弾くのも聴くのも難しい真ん中パート><。三声がどうしても縦にしか聴けない方もいらっしゃいますが、パート譜を作ることで“今この指はどこの声部のどの部分のを弾いているのか…”横へ横へと楽譜を読んで弾いたり、私とアンサンブルすることで各パートの役割がしっかり整理され、演奏もグッと立体的に仕上がります

楽譜は作曲家からのメッセージ  楽譜には、至る所に作曲家からのメッセージが盛り込まれています。そのメッセージは、目に見えるものもあれば見えないものも。特に目に見えないものは、逆にそこに痛烈なメッセージが隠されている事も多く、そのメッセージを読み取る作業は沢山の時間と根気と、そして何より情熱が必要です。今の時代はYouTubeなどネットの進化で、楽譜を読む前に簡単に楽曲を知ることができてしまいます。自ら楽譜を読み込む前に沢山の動画を見てしまっていて、誰かの演奏を、まるで自分の考えたことのように思い込んでしまっているケースも少なくありません。たまたま目にした動画の演奏が例えどんなに素晴らしい演奏だったとしても、それを真似してみたところで結局は他人の考え……。やはり、自分自身の”目と脳と情熱”で読みとった音楽とは本質が根本的に違います多くの時間と情熱を傾けて構築された音は、メッセージ性に溢れ、喩え用のない深い音楽に包まれていて終始心を打たれます

まだ印刷技術が発達していなかった頃  昔々、印刷技術が発達しておらず楽譜の出版が高額だった時代、楽譜は今のようにどこででも簡単に見られるものではありませんでした。先人達は、手に入らない作品は楽譜がある場所まで出向いていって、自ら写譜してそれを持ち帰りコツコツ勉強をしました。ベートーヴェンも、ハイドンやモーツァルトの楽譜を沢山写譜した記録が残っていますし、モーツァルトは「バッハのフーガを相当数コレクションしている(写譜したということ)」と自ら言っています。そのようにして彼らが手にした一曲一曲は、どれほど尊いものだったことでしょう。そして、そうまでして自身の技術を磨いた後、彼ら自身が創り出した作品がどれほど偉大ものか、彼らのファクシミリ版(作曲者の直筆譜の複製で、楽譜部分だけに留まらず、ノートの端のメモ書きや修正前の音符、インク滲みや紙の色まで、当時のそのままに限りなく近い状態でコピーされた直筆の楽譜)を見ると、その作品にかける思いや情熱を垣間見ることができ、襟を正して向き合わざるを得ないのです。

楽譜はただの記号ではない  勿論、こんなことは小さな子供達は知る由もなく、無邪気にニコニコマークの音符を書いて来てくれてるわけですが(^^;、それがたとえ単に音符の訓練だったとしても、その作業はとても尊いものだと思うのです。何故なら、楽譜はただの記号ではなく、”誰かの思い”・”エネルギー”だから。どんな小さなものでも、誰かの思いを写すことは、わかっても分からなくても、間違いなく尊いことだと思っています。

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