音読みについて③(音読みの先に見据えなければならないもの)

今回書かせていただくことは、私が、そもそもピアノの幼児からの教育について深く考えるようになったきっかけでもあるお話です。一旦”音読み”から話がそれますが、ぜひお読みくださると嬉しいです。

今から20年近く前、日頃からお世話になっている先生がご縁を繋いでくださり、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリの内弟子であるトリノ音楽院レモ・レモリ教授に、何度か指導を仰ぐ機会がありました。当時はまだお元気でイタリアから頻繁に来日されていたので、その度に長女や生徒さん達がお世話になり、レモリ先生がミケランジェリから受け継いだ技術的なこと、またそれ以外にも、沢山の興味深いお話を伺いました。中でも、雑談の中でよく話してくださった「ヨーロッパの子供達のピアノ教育事情」を伺って、私は当時、日本の子ども達が受けている教育との違いに大きな戸惑いを覚えました。

 ある生徒さんがレッスンにソナチネを持っていった時のことです。「ここには沢山のスラーがついていますが、この中のどれが作曲家の指示なのか、あなたはどうやってそれを知りますか?」と生徒さんにお尋ねになりました。そして指導者である私に向かって「日本では皆さんこのようなテキストでソナチネを勉強するのですか?何が本当かまだ知識のない小さな子供達が、このようなテキストで勉強するのは賢明ではありません。すぐに適切な本を探してください」と。当時はソナチネ楽譜というとほぼ一択で(このテキストは今でも多くの方が使われていると思いますが)、私自身とても慣れ親しんだそのアーティキュレーションが一から覆され、楽譜の中の文法を一つ一つとても丁寧にご説明頂きました。また、ヘンデルを弾いた子が持参したテキストについても(こちらも、日本ではバロック導入本として主流になってます)、さもピアノ曲のような顔をしてテキストにまとめられているその曲は、実はフルートソナタの一節だと知りました。バロックなどは特に、何の楽器のために書かれた作品か知ることは、アーティキュレーションを考える大きな手がかりにもなるのに、このテキストはどうしてそんな大切な事を知らせてくれていないのだろうと……。以来私は、他にも日本でごく当たり前に売られている子供達のためのテキストについて深く考えるようになりました。

 それから更に時は流れ、今度は長女がドイツへ渡りました。本人もそれまで自分が触れてきた音楽とのあまりの違いに驚き、日本の学生がやっている音楽と世界の学生がやっている音楽の差に戸惑い、と同時に世界の音楽に感嘆し、また私自身は、帰国するたびに長女が持ち帰ってくれるヨーロッパのエスプリに触れるたび、日本のピアノ教育への疑問がますます大きくなっていきました。以降、日々様々な勉強を続ける中で、その当時10年ほどストップしていた小さい方達のためのクラスを、また復活さようとの思いに至ったのです。

日本の子供達は、圧倒的に楽譜を読む持久力が足りないように思います。幼児から小学生くらいまでの時期を楽譜の前でどのように過ごしたか…。ともすると、ピアノを習うことを”頭を良くする為の第一の目的”かのように掲げて、来る日も来る日もカードを読んだり、タイムを測ってワークの中の音符を読んだり、特に幼稚園から小学生低学年頃までは芸術とはかけ離れた時間を沢山過ごしてしまっているように思います。

同じ年頃のヨーロッパの子供達が、すでにいかに生きた音楽に触れているか…このことは、多くの著名なピアニスト先生方も様々な雑誌でご紹介なさっている通りですが、ヨーロッパの子供たちは小さな時から・楽器の知識・楽譜の知識・フレーズの感覚、特にレガートの感覚に優れています。更に学年が進むと、音が読めることに満足せず、ゆくゆくはその先のオーケストレーションができるほど楽譜の中の理論を理解しています。日本の子供達はすごいスピードでスラスラとカードを読めるのに、楽譜になると途端に読めなくなる。また更にその先の、いざ楽譜の中の生きた音楽を読み取らなければならない段になって、すっかり受け身になってしまった頭にやっと気づく。受け身の脳みそでは何も想像できなくて、読み解く為の持久力さえ奪われてしまっている。それどころか、そもそも何をどう読み解くのか文法すら習っていないのが現状です。

単音読みのスキルは、音楽を奏でるにあたり必ず身につけなければならないスキルです。ですが、もっとずっと先の、本物の音楽をするために、カードやワークの更にその先に何を見据えていかなければならないのか…。私たち音楽教育に携わる者は、心して毎日子供達と向き合わなければならないと思います。

コメント